明智光秀はかなりの切れ者だった??

偉人

明智光秀ってなにした人?

日本国統一を目前にした主君織田信長を本能寺にて襲撃。信長はここで落命し日本の歴史は大きく変わる。

「主<しゅう>殺しの逆臣」の汚名で光秀の関係資料は抹殺され、ほとんど残されていない。特に前半生と光秀の功績についての信頼できる史料は皆無と言ってもよい。「明智軍記」は伝記の体裁ではあるが創作物語であり「明智軍記」の記録を史実として書くことはできない。

近年少ない史料と状況証拠に基づく歴史学者の研究で、光秀の実像と本能寺の変の動機が絞られつつある。その中で光秀の人生のストーリーと信長殺害の動機を追ってみよう。



いつの時代の人?

戦国時代
 1500年代(出自は不明)~1582年 本能寺で信長襲撃後13日目に山崎の合戦で羽柴秀吉軍と激突する。戦いに敗れ、敗走中土民に襲われ自害する(50歳代か)

どのような人生だったか

未だ不明な光秀の出自

出生年月、父親不明 :史料によると光秀は美濃源氏の土岐氏の流れをくむ人間と考えられている。

小和田哲夫氏によると、岐阜県可児市広見・瀬間の明智城(長山城)に生まれた。斎藤義龍に攻められた明智城は落城し、光秀は美濃を追われたのではないか。いずれにしても武家の生まれで、年少から禅僧から教えを受け、教養を高めた可能性が高い。

有名な禅僧である快川紹喜(かいせんじょうき)は明智一族の出身といわれている。

▶史料によっては、
・光秀は細川藤孝の徒の者(歩兵)であり、信長に仕えた時も徒であり、そのうち疲れ馬一疋の主となり、次々と取り立てられ、信長が近江を手に入れると報奨として坂本城十万石を与えられた。(校合雑記)

・朝倉義景に仕えた時は五百貫文,信長に仕えた時も五百貫文、これは馬乗りの身分(細川家記)

・1575年の頃。信長は丹波を手に入れようと族姓もわからぬ者を武辺者(ぶへんもの)<素性のわからない者を武士>といって取り立て、大将分として丹波を攻略せよ、と申しつけた(籾井家日記)

▶このように光秀が信長に仕官するまでは様々な記述があるが、良質史料にはなりえないものが多い。信長の命で京の都を奉行<政務>し公家衆(くげしゅう)と近く付き合うには高い教養を求められる。
こう考えると幼少時に高い教育を受けている可能性を主張する小和田氏の見解は納得できる。さらに、光秀は各地を転々として武者修行を重ね、越前の朝倉家へ任官。この頃から明智光秀の名が歴史に登場する。

明智光秀、戦国史へのデビュー

1568年 光秀は細川藤孝と親交があり、藤孝を通じて織田信長に足利義昭の上洛の助けを求める。(40代前半か)

▶足利義昭は、襲撃を受けて殺された将軍足利義輝の弟。義昭は越前に逃れ、帰京するための助けを求め漂泊していた。光秀は朝倉氏に義昭救済の度量なしと見限り、日の出の勢いの信長に仕官し義昭の帰京支援を説いた。光秀は美濃出身であり、信長の正室濃姫とは従妹になる。

▶光秀が細川藤孝と関わったのは義昭上洛の時ばかりでなく、学問や趣味(連歌)の上でも共感するところがあり、政治的活動を共にするようになったと考えられる。

光秀、政治力の高さを信長に買われる

1569年 信長は足利義昭を奉じて上洛する。

4月 光秀は木下藤吉郎(豊臣秀吉)と京都の政務に携わる。この時、将軍足利義昭の治世とは言え、信長の承諾無しに義昭は何もできなかった。信長の京都出先機関には光秀、秀吉、柴田勝家、丹波長秀、中川重政らがおり、光秀は信長の代理の役割であり、義昭と近い関係にあったとされている。すでに光秀はかなり高い身分になっていることがわかる。

▶8月、秀吉は信長に従軍し京を離れる。

光秀は京で政務に携わる。光秀の政治的才能を信長は認めていた。また、高い教養があるため公家衆との繋がりも強かった。

これより先、光秀は信長の膝下で軍事・政治に手腕を発揮する。年次ごとに彼の闘争を追ってみよう。

公家衆と将軍家を相手にできる光秀の高い教養

1570年 光秀、京を奉行する(政治を取り仕切る)。将軍義昭から東寺八幡宮領山城下久世荘を授与される。

4月 信長の朝倉義景討伐の軍に従う(朝倉義景は光秀のかつての主君)
8月 信長の摂津(大阪西部辺り)の出陣に従う
9月 信長の近江(滋賀県)出陣に従う。
冬 堺衆と交渉を持つ
長子(十五郎)生誕

▶この頃秀吉は丹波長秀と横山城に居り、光秀、秀吉が信長に合流信長がおおいにそのことを喜んだという記録がある。
光秀、秀吉は信長軍の両雄であることがわかる。

▶光秀は信長の信任を受けた部下であったが、義昭からも下久世荘を与えられている。これは光秀が義昭にも仕えていたということになる。光秀は信長と義昭の取次役、潤滑油の役目を果たしていた。

ライバル秀吉とのデッドヒート始まる:光秀、城主となる

1571年
9月 幕府軍と摂津に出陣。信長から近江志賀群を与えられる。
10月 信長は京都市民に米を貸しその金利を禁裏の供御料にあてる。光秀がそれを取り仕切る。
12月 義昭に暇を請う(退職願いを出す)。近江坂本城築城に着手する。
▶光秀に送れること1年半、秀吉は長浜城を与えられている。
この時点で光秀は秀吉より一歩先行していると言える。

軍事面での能力の高さを見せる

1572年
3月 信長に従い近江に入り、木戸、田中を攻める。
4月 柴田勝家らと河内に出陣し、交野城を救う。
7月 坂本城完成する。

信長より近江(滋賀県)を与えられる

1573年
2月 光秀ら石山を攻め落とし、今堅田を攻め破り、志賀群の過半を平定する。
6月 坂本城で茶会を開く
7月 信長に従い槙島城にいる義昭を攻める。
信長、近江木戸・田中領域を光秀に与える。
9月 滝川一益と越前政治に関与する。

1574年
2月 信長に従い東美濃に出陣。
9月 佐久間盛信らと河内に入り本願寺衆徒を破る
10月 高屋城を攻める

「一向一揆沈圧」容赦なく僧や信徒を襲撃
光秀、京都の政治を離れ丹波(近畿地方)の平定に取り組む

1575年
4月 再度河内高屋城の三好康長を攻める
6月 丹波経略に着手
7月 朝廷から「惟任」(これとう)の姓を受ける。官途は日向守。
8月 信長に従い越前に入り、一向宗門徒を攻める。秀吉らと加賀に入る
11月 丹波黒井城を攻める。国衆の過半数が光秀に味方する
京都の政治から離れる
▶光秀は合理的な考え方をする人物である。叡山焼き討ち、本願寺攻撃にも信長同様、精神的苦痛は無かったと考えられる。寺社への寄贈もしているが、それは衆望を集めるためであろう。

ここから丹波平定のため転戦する:「石山本願寺」攻める

1576年
正月 丹波黒井城の赤い悪右衛門を攻める。矢上の波多野の謀反で敗れる。
2月 丹波に入る
4月 信長の石山本願寺攻めに従軍 石山の陣中で病み帰京

1577年
3月 滝川一益らと紀伊に雑賀党を攻める
10月 細川藤孝と大和片岡城の松永久秀の党を攻め破り、大和信貴山の久秀攻撃の軍に参戦。籾井城を攻略する。

西洋王族のような明智光秀の家族

1578年
3月 波多野秀治を八上城に攻める
4月摂津に転戦
7月 信忠に従い播磨神吉城を攻め落とす。
8月 三女球(ガラシャ)を細川忠興に嫁す
9月 丹波に入り小山城を攻め、高山・馬堀両城を落とす
▶光秀の子で確実なものは、明智秀光の妻、織田信澄の妻、 細川忠興の妻(ガラシャ)の三人の女子と、十五郎と名前のわからない小児の男子二人である。1582年のフロイスの書状によると、坂本城落城の時二人は死んだという。長子は13歳で欧州の王侯のような優美な人であった。

1579年
正月 坂本城にて茶会を開く
2月 丹波に転戦し波多野氏をくだし安土に送る。波多野の残党を攻め落とす
7月 朝廷より御領所丹波国山国荘回復の賞として物を賜る
9月 丹波国領城を落とす。
▶信長は折檻状の中で、丹波における光秀の軍功は天下の面目を施したと言って第一に推奨し、その次に秀吉の専攻を賞している。

丹波一帯(近畿地方)を光秀領として与えられる

1580年
正月 坂本城にて茶会を開く
3月 坂本城の修築
4月 信長の命により、備中に秀吉の援護に赴く
8月 信長、丹波を光秀に与える
9月 奈良に入り、大和の寺社本所以下国衆に指出(知行地の面積、作人、収穫量の報告書の提出)を命じ、奉行する
12月 坂本城に筒井順慶訪れる
▶筒井順慶は大和を松永久秀から奪い支配下に置く。これは光秀の尽力の賜物であり、光秀の組下として活動していた武士。本能寺では光秀を裏切る。

京都での馬揃えの総指揮に着任:しかし、ライバル秀吉が先行か

1581年
正月 坂本城にて連歌会、茶会を開く
2月 信長、京都に馬揃え(軍事パレード)を催す。光秀に采配を命ずる
8月 秀吉の応援のため因幡に出兵
9月 信長は光秀と藤孝に丹後の一色義有の知行分を二人に分け与える
光秀は藤孝と共に丹後に検地に入る
▶京都での軍事パレードの責任者になった光秀は得意であったろうと思う。
一方、秀吉は中国地方の平定を成し遂げつつあった。

光秀の決断: 敵は本能寺に在り

1582年
3月 信長に従軍し安土から甲州へ
5月 信長より家康の接待を命ぜられる。

▶秀吉の中国攻めの応援のため西国出兵を命ぜられる
6月1日 午後10時、光秀は1万3千の兵を率いて西へ向かわず京を目指す。坂本城より丹波亀山に入り、愛宕山に参詣する。

▶光秀は謀反を一人で計画し、側近にも直前に伝えたと思われる。信長の主な武将達は各地に散り戦っており、家康は堺に滞在し、信長の援護に駆け付けられない情報を得ていた。
6月2日 信長を本能寺に攻め、信長は自害。二条城の信長の嫡男信忠を攻め、信忠も自害する。夕刻坂本城に戻り、各方面に協力要請の書状を送る。

光秀の誤算:「秀吉の中国大返し」と細川藤孝・筒井順慶の離反

4日 近江、美濃を平定する
5日 安土城に入り、長浜、佐和山を占領
7日 安土に勅使吉田兼見訪れ再会、朝廷からの禁裏守護の勅命を受ける。上京し銀子(お金)を宮中、寺社に献ずる。
9日 京都にのぼる。

▶公家衆や町衆は光秀を盛大に迎え、天皇や親王、寺社に献金し朝廷との結びつきの強さを見せる。
▶細川藤孝、忠興に協力、援軍を求めるが応じず。細川とは長い付き合いで親戚関係でもあった。

10日 河内に出兵し、支援を求めた順慶を洞ケ峠で待つが裏切られる。
13日 秀吉は信長の三男信孝を奉じ、中国地方から取って返した。秀吉の軍と山崎で衝突、敗戦。坂本城に向かう途中小栗楢にて土民に襲われ自害する。

後世に残したものは何か

本能寺での信長襲撃の動機はいまだ解明されてない。以下は筆者の考察である。

光秀の軍事・政治での優れた能力は信長と共にあって示されている。
信長は天才的ひらめきで新たな日本を創ろうとしていた。
半面、信長の敵対者への対応は残虐非道であり、その残虐性は身内や家臣にも及んでいる。
光秀は襲撃計画を当日まで隠していた。
彼は信長が日本のリーダーとしての不適性を冷静に見極めていたのではないだろうか。
いつか誰かが倒すべき、と考えていたのではないだろうか。
その千載一遇の時が6月2日だった。

光秀によく似た智将がいる。石田三成だ。三成も政治・軍事に優れ、関ヶ原で破れた。彼らの決定的敗因は信頼できる部下を持てなかったことにある。

信長には秀吉と光秀、秀吉には三成と黒田官兵衛といった参謀格の家臣がいた。しかし、光秀、三成にはそういう部下がいなかった。

そして「その後」について、自身が日本のリーダーになるという具 体的な考えは無かったと思われる。光秀と三成との共通点はまだある。共に領国では、いまだに彼らを慕う伝承が残っている。短期間であった彼らの善政を示すものだ。

光秀は現代に生きる我々に永遠の謎と、人生の勝負での教示を残したと言えまいか。

光秀の言葉

仏の嘘は方便という。武士の嘘は武略という。土民百姓はかわゆきことなり。

関連する人物

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