戦国時代の奇跡・真田昌幸の智略と先見性に学ぶ

真田家

本記事の内容

真田昌幸ってなにした人?

信濃(しなのの)国(くに)(長野県)真田郷の小領主だった。智略と先見性を武器に、息子信之、信繁(幸村)と群雄割拠の間を行き来し、ついに大名家となり現在14代当主(真田幸俊氏)を持つ戦国の奇跡を実現し、真田家400年を超える血脈の基盤を築く。

いつの時代の人?

戦国時代:1547年~1611年 64年間の生涯
昌幸の父幸綱の三男として生まれる。父幸綱は武田信玄に使えていた。この頃小領主は例外なく列強大名に吸収されるか滅亡の道をたどった。



どのような人生だったか

7歳で武田信玄に人質として差し出される。
信玄が昌幸の才能を見出し小姓に抜擢、信玄から多くのことを学ぶ。
1561年 14歳で第4次川中島の合戦で初陣。

信玄の生母の実家である武藤氏の養子となる。
人質が甲斐の名族に迎えられたのは異例であった。
「我が両目のごとき者」と信玄から信頼されていた。

信玄没後、1575年5月の長篠・設楽原の戦いで武田は織田・徳川連合軍に敗れ、昌幸の長兄正綱、次兄正輝が戦死。28歳で昌幸は真田家を継ぐため名門武藤家を出る。

1580年(天正8年)33歳の時、武田勝頼の命を受け北条氏の沼田城(群馬県沼田市)を調略により開城させる。
昌幸には夢があった。小県(ちいさがた)(真田郷のある地域)と沼田を手中にし、戦国大名として自立することであった。

「表裏比(ひょうりひ)興(きょう)の者」と石田三成らに警戒された昌幸のスキマを狙うサバイバルが始まる。

1582年3月 落ち延びる勝頼を岩櫃城に迎える準備の最中、勝頼は自刃。主君を失った昌幸は「寄らば大樹の陰」と織田信長に臣従したが、沼田は信長家臣の滝川一益に取られる。

6月 信長は本能寺で横死。昌幸は間髪を入れず沼田を取り返し、岩(いわ)櫃(びつ)城に長男信之を配す。

7月 事態は急展開し、北条本隊が信濃に侵攻、小県・真田郷が危うくなる。昌幸は北条に帰属し川中島制圧に従軍。そこへ上杉景勝と徳川勢が介入。

9月 北条、上杉、徳川 3強三つ巴の中、昌幸は徳川へ味方する。昌幸は碓氷峠の北条軍を撃破し徳川に貢献し、沼田条、岩櫃城、砥石城を持ち城とすることに成功。

10月 家康は北条と和睦し、沼田を北条に渡すことを約束する。昌幸は返還命令を拒否する。

1585年 7月 家康との対決を固めた昌幸は上杉景勝に接近し、和議が成立。上杉景勝は昌幸の領土の維持と援軍の約束をする。

8月 第一次上田合戦 言うことを聴かず敵に寝返った真田討伐戦始まる。真田の奇襲に攻めあぐねた徳川は11月撤退。この間昌幸は秀吉に接近。上杉に人質に出していた幸村(信繁)を秀吉に出仕させ臣従の証とした。

1587年 沼田領の秀吉裁定が下る。北条3分の2,残り3分に1が真田となる。

1589年 真田が守る名胡桃城を、沼田を守る北条家臣が突然奪取する

1590年 裁定を無視した北条に激怒した秀吉は小田原攻めを決める。この合戦の論功行賞で真田は削られた沼田領を信幸の領地として安堵され、豊臣政権内に地位を築いた。

1600年 7月21日 関ケ原序章 犬伏(いぬぶし)の別れ
家康から会津出兵(上杉景勝征伐)の指令を受け、犬伏(いぬぶし)宿(栃木県佐野市)に昌幸、信幸、信繁(幸村)が落ち合う。嫡男信幸は徳川へ、昌幸、信繁は豊臣へ付く。

9月 第2次上田合戦
3万5千の兵を率いた徳川秀忠(家康の嫡子)は昌幸率いる2千5百で守る上田城を落とし、関ケ原の決戦に向かうべく上田に入る。秀忠軍は昌幸の智謀に振り回され10日間足止めされ、城を落とすどころか関ケ原の戦いに遅れ秀忠は家康の叱責を受ける。

9月15日 関ヶ原合戦 西軍破られる
昌幸、信繁(幸村)父子は高野山九度山に遠流となる。生活費の大半は信幸に頼り、連絡を密に取り合っている。昌幸の手紙には「機根くたびれ候」等、厳しい生活を思わせる内容が多い。

1611年6月4日 九度山にて65歳の生涯を終える

後世に残したものは何か

昌幸の意志を継いだ嫡男信幸は徳川大名に(松代藩真田十万石)、信繁(幸村)は「真田日ノ本(ひのもと)一(いち)の兵(つわもの)」と敵からも讃えられる武勇を示す。

敵味方に分かれた父子の結束は強く、この親子関係が後世理想の家族像になっていったのではないかと思われる。

関連する人物

  • 真田信之
  • 真田幸村(信繁)
  • 石田三成
  • 大谷吉継
  • 豊臣秀吉
  • 徳川家康
  • 織田信長
  • 北条氏政
  • 小松姫
  • 本田忠勝
  • 徳川秀忠
  • 本田正信
  • 上杉景勝
  • 大久保忠世
  • 淀殿
  • 豊臣秀頼
  • 大野治長
  • 後藤基次(又兵衛)
  • 片桐勝元
  • 千姫