外様大名にして将軍家綱に「真田は天下の飾り物(武士の鑑)」と言わしめた真田信之の生き方

真田家

本記事の内容

真田信之ってなにした人?

真田信之の嫡男。関ケ原の合戦で父弟と袂を分かち東軍(徳川)に付く。徳川勝利後、父昌幸の領地を安堵され、徳川の命で松代藩真田十万石大名となり家康の信頼あつく珍重される。

戦国時代の奇跡と言われる。藩主として善政を敷き250年に渡る真田による統治の基礎を作る。今も第14代当主を持つ稀有な家系である。

いつの時代の人?

戦国時代~江戸時代
1566年 武田家臣真田信之の嫡男として甲府で生まれる。名うての戦上手父昌幸のもとで「真田の兵法」、少数精鋭による戦いを学ぶ。

真田郷は山に囲まれた盆地状の小さな集落である。こうした場所で必要だった、山岳戦、ゲリラ戦、修験者を使った諜報活動に長じ、「地の利、人の和」つまり戦場を熟知し兵の心をつかみ策略を用いて戦いを有利に運ぶのである。

この戦法を使った常勝の将となる。
1658年93歳で長野市松代町芝にて没する。



どのような人生だったか

1582年3月 武田滅亡。甲府脱出。父昌幸は岩櫃城で指揮をとっていた。17歳の信幸が一族はじめ200人の一行の運命を担い砥石城へ向かう。

武田の重臣から小豪族長になった父子の「真田は独立した大名になる」という夢に向かう二人三脚が始まる。

昌幸の意志を継いだ嫡男信幸は徳川大名に(松代藩真田十万石)、信繁(幸村)は「真田日ノ本(ひのもと)一(いち)の兵(つわもの)」と敵からも讃えられる武勇を示す。

敵味方に分かれた父子の結束は強く、この親子関係が後世理想の家族像になっていったのではないかと思われる。

信長が横死し、信濃(しなの)・上野(こうずけ)を戦国3強が取り合う天(てん)正壬(しょうじん)午(ご)の乱勃発。昌幸は信幸を城将として岩櫃城に配す。北条は岩櫃城の支城手子(てご)丸(まる)城を取ったが、初陣信幸指揮する神出鬼没の真田兵800が北条3000の兵を破り取り返す。

1585年 第一次上田合戦 沼田領をめぐる攻防の中、家康は北条と同盟し、真田を打つため7千の兵を上田に送り込む。上田城は2千足らずの兵で昌幸が守り、信幸は砥石(といし)城に300の兵で守備に就く。昌幸・信幸の阿吽(あうん)の呼吸で指揮する真田軍に徳川大軍は1300の死者を出し、敗退する。

1586年 父昌幸と上洛し秀吉に謁見。父は家康の寄騎(よりき)大名となる

1589年 人質として徳川家康に出仕。家康に気に入られ、家康の重臣本多忠勝の娘、小松姫と結婚。信幸24歳。この結婚が父子の行く道を決めた。

1590年 北条氏の小田原攻めに参戦。松井田城攻め、箕輪城攻めで戦功をあげ、沼田城主となる。これは真田の夢の最初のステップの実現となる。

1600年 信幸35歳 父・弟と別れ徳川へ就く。第二次上田合戦に参戦。弟が城将の砥石城を落とす。(この時信繁は戦わず城を退去。ここに真田の結束の強さがうかがえる)これが真田父子の関ケ原であった。

1602年 信幸は真田の領土全体を引き継ぎ、上田藩主となる。この時信幸改め信之と改名。関ヶ原合戦後、信之は父と弟の助命嘆願に奔走する。家康を完膚なきまでに追い詰めた真田昌幸・信繁に死罪は免れない。

義父の家康への助言もあり、高野山九度山への配流となる。▶特筆すべきは、沼田二万七千石、上田領を含む六万八千石を加増された。九度山に監禁された父、弟の生活の面倒をみる。昌幸、信繁との往復書簡に、親子兄弟の真意が見られる。

1614年 大阪冬の陣  信之は病床で、息子の信吉、信政が参陣。

1615年 大阪夏の陣  信之は病床で、息子の信吉、信政が参陣。

1622年 幕府の命で上田から松代十三万石に移封。沼田は嫡男信吉に継がせる。

1657年 信之91歳 幕府からようやく隠居が許された。が跡目争いが勃発。
3代幸道の後見となることで幕府は幸道への家督相続を許した。

1658年 93歳で死去。最後まで後見であり続けた。幸道は後に賢君となる。

後世に残したものは何か

父と、弟の信繁(幸村)は智勇、武勇で名を残した。信之とて智勇兼備の名将であった。

信幸は政治力に優れていた。領民に慕われ、幕府に珍重され、死ぬまで政務についた。父と弟は名を残し、信之は真田の実を残した。

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